日本のジャンヌダルクー上杉謙信は女性だったか?



2014年8月28日

上杉謙信は、その天才的な戦術から「軍神」と称されることもある戦国武将です。

有名な「川中島の合戦」では、12年もの間に5回もの熾烈な戦いを武田信玄との間で繰り広げました。
上杉謙信は、親族であっても容赦なく殺す武田信玄を心底嫌っていたとの事ですが、一方で、武田信玄が敵から塩止めを受けると(武田信玄の領地(現在の山梨県)では塩が手に入らなかった)、自分の領地(現在の新潟県)から塩を贈るなど、人道や情に厚い武将であったと言われています。

1530年に現在の新潟県上越市の武将の四男として産声を上げた謙信は、14歳で初陣を迎え、その後負け知らずの軍神として「越後の虎」と呼ばれ戦国時代を勇猛果敢に生きました。
現在残っている肖像画は出家後の僧侶服姿のものが有名です。
それは、恰幅の良い大柄の体格、そして髭だらけの雄雄しい姿のものです。

しかし、そんな上杉謙信が、実は女性であったとの説があります。
それは単なる噂や憶測のみならず、様々な史実からもうかがい知ることができるのです。

上杉謙信が女性であるこれだけの証拠

毎月10日頃になると起こる腹痛

毎月10日前後になると決まって腹痛を起こし、合戦中であっても一度退いて城に引きこもっていたとされています。
ある歴史書には、謙信の領地に北条軍が攻め入ってきたときも、6月11日から10日ほど腹痛で城に篭っていたとされています。
毎月起こる腹痛というと、女性の生理ではないかと考えられています。

スペインでは「女性」と記されていた

日本の戦国時代にスペイン国王であったフェリペ2世の記録によると、上杉謙信は上杉景勝の『叔母』と記されています。
景勝は謙信の姉の子ども(謙信の甥)であることから、謙信が男性ならば『叔父』と記されていなければなりません。
スペイン語は男性詞と女性詞が明確にされている言語のため、誤って『叔母』と記された可能性は非常に低いものと考えられています。

民謡に女性を伺わせる歌詞が残っている

上杉謙信が治めていた越後には「ごぜ唄」という民謡が残っています。
その「ごぜ唄」の歌詞の中に、
「まんとらさまは 男もおよばぬ大力無双」
という歌詞が残されています。
ここでいう「まんとらさま」は「政とらさま」すなわち、まつりごと(=政治)を行う「とら」さま、つまり上杉謙信(幼名を「虎千代」という)のことです。
つまり、民謡は「上杉謙信は男も敵わないほどの力持ち」
と歌っているのです。
男も敵わない、、、ということは、女性であることが推察できます。

肖像画は後世に描き変えられたもの

Uesugi_Kenshin恰幅の良い髭面の男性の肖像画が上杉謙信の代表的な肖像画とされていますが、実はこれは江戸時代に描き変えられたものであるとされています。
なぜならば、出家をして僧侶服を着ているにも関わらず、無精髭を大量に生やしていることがあげられます。
当時は出家をすると、頭髪はもちろんのこと、髭や、体毛まで剃ることも普通とされていました。
それが、肖像画という後の世に残るものを作成する際にだらしなく無精髭を蓄えたままというのは非常に不自然です。
また、江戸時代以後は女性が領主になることは叶いませんでしたので、以前の城主が女性であるなどとと知られるとその血筋が時代に遡ってお家断絶となるケースもありました。
そこで、上杉家の血筋の人物がお家断絶を恐れ、雄雄しい姿の肖像画を捏造したのではないかと推察されています。

死因は「大虫」

上杉謙信は戦国武将ながら戦場で命を落としたのではなく、病死したとされています。
歴史書には以下のように記されています。
『此の春越後景虎卒去(年四十九)大虫と云々』(この春、越後の景虎(上杉謙信)が死んだ(49歳)。大虫によるものだった。)
大虫とは、現在の婦人病・更年期障害の事とされています。
また、謙信が倒れた場所は城のお手洗いであったとされています。
そして、倒れた後謙信は自分の身の回りの世話を後家の女性に行わせています。
謙信が女性であり、婦人病で病の床についたのであれば、男性や若い女性ではなく、年のいった女性に身の回りの世話をさせたということも理解できます。

このように、様々な観点から上杉謙信が女性であったと推測できる事実が明るみに出ています。

Pocket
LINEで送る
Delicious にシェア


未解決年数

Summary: 決定的な裏づけとなるものは現時点では発見されていませんが、戦国時代の「軍神」が実は女性であったという説は、多くの人々の想像力を今もなお駆り立てているのです。

3.3

ポイント
信憑性
未解決期間
未解決度
謎が解けたときの影響
ユーザーのレート : 4.1 (3 votes)

コメントを残す